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Results tagged “メメント・モリ” from 新地のドゥルーズ

メメント・モリ

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長文注意!

この2ヶ月間、僕の表面で起きた出来事を

考えているところだ。

怪我の功名もある。小泉義之=ドゥルーズをやれた。

表面、といえば「表面的」ということばが使われる。

「高貴さ」を対称軸として「内面的」に対しては

普通は軽く・見下げた扱いをうける。

しかし今回僕のからだに起きた出来事もそうだけど

出来事は「深層」とか「高所」で起きるのではない。

事件は深層や高所では起きない。

表面で、皮膚の上で、起きる。

深層や高所で生起することは表面で起きることに

くらべたらせいぜい「効果」にすぎない。

・・・・・

自分なりに概念化してみた。

1.死を思うこと。

2.死ぬことを練習すること。

3.死を生きること。

これらの位相構造は触れ合うことはあるが

互いに別モノと考える。

1.について

藤原新也の『メメント・モリ』を例に。

「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」で有名な

写真集である。衝撃的といえなくもない。

「死を思う」ことはできる。

が、駒ヶ根美術館に常設の生写真を見たときに

既視感のせいか「死を思う」まで至らなかった。

メメント・モリとはせいぜいその程度ではないのか?

擦過する。が傷は受けない。

2.について

今回の検査は「死ぬことを練習すること」だった。

今振り返ってもその思いは変わらない。

がんを疑われて造影CT、生検、骨シンチと受診する患者様は

この位相構造のどこかにいるだろう。

3.について

がんと確定し余命を告知された場合、

戦闘で致命傷を受肉した場合、

彼は「死を生きる」ことになるだろう。

・・・・・

これらの概念をドゥルーズのなかにたずねる。

『意味の論理学』を読む。命題的になってくるなあ。

僕の表面で起きた出来事を

ドゥルーズの『意味の論理学』第21セリーの

「出来事」に照らしてみる。

ジョー・ブスケが引用される緊迫のセリーだ。

ちょっと横道にそれるが、

小学生のころ映画『ビルマの竪琴』をみて

怯えた記憶がある。

なぜだったのか?

「運命」を引き受ける水島上等兵に

子供ながらも酷薄・恐怖を感じたのだろうか。

一方で同時に青年は過酷な「運命」をあこがれる。

開高健の『輝ける闇』には、弾丸が飛び交うなか

普通に飯を食うベトナム兵士のシーンがある。

振り向いたらいつのまにか倒れていた・・・と。

「運命」に対してかくも静かな死をもって処することに

一種の憧憬をもつ。

これを要するに、現実存在はパラドキシカルそのものだ、

ということ。

到来する「運命」に理想的な自己同定化を企てること、

そのことが倒錯なのだ。

常に分岐して留まらないのがパラドックスというものだから、

出来事はいくつもの位相構造を携えてラッシュする。

そう考えていいのではないか。

そこで改めて問う。

第21セリーでブスケを引き合いに出すドゥルーズに

僕らはどこまで倣うことができるだろうか?

第21セリーに自分はどう反照しているだろうか?

「すなわち、われわれに到来することに値する者になること、

したがって、到来することを意志し到来することから

出来事を解き放つこと、自己自身の出来事の息子になること」

諸氏や如何?

(読み返すといつのまにか、出来事=運命になってますなあ・・)

メメント・モリ

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 先だって朝日に藤原新也の書評があった。ノンフィクション作家の久田恵が藤原新也の新著『日本浄土』についてふれたものだ。著者はまだ旅の途上にある、と。「今、出会えて良かったな、と思う」と思わせる作家ってシアワセだなあ。嫉妬してしまうねえ。(笑)書評の中で"社会を震撼させた"(久田)有名なコピー「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」に触れている。『メメント・モリ』のなかのことばだ。写真集でみたし、駒ヶ根高原美術館の常設展示でもみた。検索すればご当人のwebサイトでもみられる。
 「歩くことだけが希望であり抵抗なのだ」とはどうやら『日本浄土』のなかにあることばのようだ。44年生まれ、というから65歳か。『メメント・モリ』から25年経ったそうだ。機会があれば手にとってみたい。

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