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Results tagged “フーコー=ボッシュ=聖アントニウス” from 新地のドゥルーズ

ジェイムズ・ミラーの
『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』
(田村 俶ほか訳:筑摩書房)
第10章「自己の記述」に
ボッシュの「聖アントニウスの誘惑」の
絵(トリプティク)の記述がある。
気になったので鋭意検索した。
胴体のない不気味な男と面対するアントニウス。
画像中央付近です。
フーコーはこのフィギュアについて
自己の目下の課題にひきつけて考察する。
パクリだけど備忘のために安置します。(拡大画像あり)



くだんの本文には今日は触れずに
不気味なフィギュアに加えて
気になる本文脚注16(原注)を以下に。
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フーコーは1980年、
ハウイソン記念講演終了後の自由討論の席で、
禁欲主義とエクリチュールの結びつきを精緻化している。
「私の考えでは、自己の解釈学が
ある種のエクリチュールに席を譲ったときに、
近代文学が始まったのです。
たとえば、モンテーニュからです……
文学はある意味で自己の犠牲です。
あるいは、自己の犠牲であると同時に、
事物の秩序のなかでの、別の時間、
別の光などといったもののなかでの、
自己の置換でもあるのです。
ですから、近代の作家はある意味で、
初期キリスト教の苦行者あるいは
初期キリスト教の殉教者と関連しており、
結びついており、類似しています。
私がこう申し上げるときは、もちろん、
辛辣な皮肉を込めて言っているのですが」――
そしてフーコーは笑うのだが、
明らかに聴衆は彼が何を言わんとしているのか
見当がつかず、押し黙ったままだ。
フーコーは続ける。
「自己の解釈学と自己の消滅――
犠牲、自己否定――とのあいだの関係という、
この同じ間題が近代世界における
文学経験の核心であると考えます」
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ちなみに脚注16の詳細を画像で。(拡大画像あり)



本書に触れずに、ボッシュと脚注だけになったが
すんません。ぐっときた場所でアホが立ち止った、
ということです。

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