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Results tagged “フランシス・ベイコン” from 新地のドゥルーズ

 マイケル・ペピアットの「フランシス・ベイコン」を県立図書館から借り受けて読み始む。夏目幸子訳。新潮社。せんに『美術手帖』3月号「ベーコンの壮絶で華麗なる人生」(伊東豊子)の、参考文献リストにあったからだ。

(EOS5Dmk2 /MACRO-ELMARIT-R 1:2.8/60/SILKYPIX)

ベイコンのトリプティク

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ベイコンの数あるトリプティクのうち
これはなかでも衝迫的だろう。
三幅対のセンター部である。
キリスト教の伝統都的なトリプティクとのあまりもの断絶に
驚くとおもいます。
しかも家畜の解体=逆さ吊りです。



ベイコンその人は「否定」し、
「うそぶいて」もいたらしいが、
中央にはこのお方らしい刷り込みがあるのに気付きますか?



字義どおりの「襞」だなあ。
これはセンター部だけど
トリプティクの左右両側にも強力な磁場がある。
まずはこの絵が
あなたの何かに触れるなら、他も鋭意あたってみてください。

その過程でベイコンならではの「倫理」にゆきあたるでしょう。
「倫理」とはかくもしたたかな力なのです。
ジュンク堂ではマイケル・ペピアットの
「フランシス・ベイコン」を読みふけった。
4階の美術書書架から持ち出して2階のカウンタ。



もう一冊、フィリップ・ソレルスの
『フランシス・ベイコンのパッション』(三元社)

今日はマクドナルドの泥水のような冷コーを
2杯やりました。エアコンはギンギンだった。
急ぎ足で涼しくなった一日。



にらチャンポン=福新樓でのアソビ。
(at the Shintenchō McDonald's.)
NPG= National Portrait Galleryに
Francis Goodmanのポートレイト作品がある。
(検索にて)

先の「みずゑ」ベイコンの別ショットがあった。
ぜひサムネールを拡大されたし。



出で立ちが同じだ。
ベイコンのおとぼけ顔(?)がいいなあ。独特。
1972年とあるから「みずゑ」と同年だ。
ベイコン63歳か?
いまの僕くらいだ。最盛期?円熟期?。
(at the Shintenchō McDonald's.)

フランシス・ベイコン

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ベイコンについては『磔刑』を知るのみだ。
(イェルク・ツィンマーマン 五十嵐訳 三元社 2006年)
それだけでも強度は十分だけど。
いまあちらこちらでベイコンについて精査中なんです、実は。
明日はジュンク堂で時間をかけてやる予定。



この絵は、「みずゑ」のNO.810 1972年 の見開き。
(これはネットにもないと思うので)
ベイコン知らない方のために。
この絵だけで、あなたの潜在イマージュに
何かが顕現しますか?
何かが滲み出てきますか?

ドゥルーズには
『感覚の論理~画家フランシス・ベーコン論』がある。
が、ベイコンに限らず、スピノザ、カフカ、フーコーを
ドゥルーズの著作にみたいと考える余裕がない。
ドゥルーズ本人のことで手にあまる。
そのうちにね。読みましょう。

72年の『みずゑ』のものは
フランシス・グッドマンという写真家によって
撮影されている。
これは僕のラインだけど、
おのおのがいわば秘儀をもって何かに接近してゆく。
概念化はそのようにして始められる場合がある。
ポートレートのモデルとしてのベイコンに何か
!と感じる。
他のモデルには感じられない何か、だ。
①全身である。
②表情は不自然を装ったふうである。
(彼の意図だとおもう)
③ポートレイトが何たるかを撮影者以上に知っている。
④全体に「いかがわしい」ムードである。

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