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Results tagged “ドゥルーズ” from 新地のドゥルーズ

α6300 E1.8/35mm

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当地に県立図書館が移転するということが分かった時点から、それが実現した暁には俺の晩年は変わるな、と予感した。w
まだひと月にも満たないけれど実際それ以上の「効果」を感じている。なにしろ歩いて15分の場所だ。村上春樹の若き日に神宮球場がすぐそばにあったのと同じ距離です。図書館はドゥルーズのいう「効果」そのものだと思っている。そのうち色も褪せてくるだろう。僕としてはできるだけその褪色を引き延ばしたいとは思うがそうはいかないのが人生ってものだろう。
老人のささやかな愉しみなので、せめて検索にヒットしないようにと図書館の固有名は使わぬことにした。ミューズの取扱説明書は自分の手で作るしかない。
エルマー3.5cm F3.5。α6300。こんなレンズも持っていたのだ。忘れていた。w



SILKYPIXのモノクロ2現像。Photoshopでレベル補正のみ。室内自然光。
キーボードの横。M42アダプタ17-31mmに取りつけた工房作Zeiss-Opton Biogon 1:2.8 f=35mm。これでミライon(当地の図書館)借受のカフカ。



これらはE1.8/35。





ドゥルーズが読めるのがありがたい。



下のは江川・堀対談に出てくるラプジャード。おいら向き。今併読中。





大澤真幸「古典百名山」=ドゥルーズ「意味の論理学」=朝日。
α7sとフジノン55㎜ F2.2。



読みづらい人は、

ここです。

これもフジノン。


(ズマリット40mm。ライカミニルックス抽出)

シリーズ2日目。主体が、生成のただなかにいる。AI、ビッグデータ、VRとともに生きている(生かされている)。いまだからこそ切実に感じる。ここにもドゥルーズは生きられている。フクシマを経験し、温暖化=異常気象を肌で知るニッポン人にとって論攷に違和感はない。(ちなみにシリーズ前回は、ベーシックインカム=月10万円を国民に支給するべし、というもの。これにも僕は異論はない)

ニンゲンはもっとニンゲンらしいことに専念する。
外国人に3K(死語か)を任すのではなくAIロボットにしていただきましょう。高額医療器械ではなく、身近で必要なマシンをたくさん製作・頒布して欲しい。そんな時代を待望します。


うーむ。
どのような経緯からこんな「生」(表明がトピックとしてマスメディアに取り上げられなければすまされない「生」)を引き受けることになるのだろう。
①社会の諸関係上のこれは避けられぬ「受苦」なのか。これでは社会の効果として、勝間和代は生き続けなければならなくなる。(消費されるだけになる)
②そもそも朝日新聞社はなぜこんなことを記事にするんだろう?どんな個人も「表明」させられてはならない。(著名人に表明させるのがマスメディアのシゴトといえばそれまでだが)。「その件については表明いたしません。ごめんね」で打ち切ればいいのにねえ、勝間さんできなかったんだろうか。
ブログに笑顔の写真が、うんぬん、そんな問題じゃないでしょう、朝日さん。よーく考えてごらんなさい。ここで問題なのは「残余」でしょう。
③彼女は生活のいちいちを露わにしたのではない。むしろことがらは奥深く沈潜したんだ。大事なことを隠すために、触れられたくない聖域を守るため「表明」してるに過ぎぬ。バカだねえ、そんな気持ちも読めないのかなあ記者は。
④覚えてますか。加藤茶の「アンタも好きねえ」。
勝間さん、アンタも好きねえ。でもなんだかシアワセそうですね。と、いうことで済まされるできごとだと僕には思える。
いいじゃないか。女が女に惚れる。男が男に惚れる。昔からあります。フーコーの『性の歴史』をみよ、です。


α7sに市販のLEICA R-NEXアダプタ、純正エクステンダー、カナダライツ製のMCRO ELMARIT-R 60mmF2.8の順につけている。全長はこうです。先日知人からエクステンダーを頂戴したので使ってみようと。MCRO ELMARITであればエクステンドしなくともいいのだが、「超常現象」をしたくてですね。w



「現代思想」は「コミュ障」特集。中に、國分功一郎と千葉雅也の対談があります。ここはラストの部分。意外やヘーゲル、人倫、ディーセンシィ(decency)が出てくる。
30代(千葉)と40代(國分)ですからたのもしい。内容は豊富で、オープンダイアローグ、貴族論、コミュニケーション障害のこと、教育論・・。拡大画像で読めます。上段と下段。





さて。すいません少し自分のこと。僕自身、「コミュ障」を飼いならしつつ生きている。「さ、一緒にやりましょう」は苦手。今をときめくオープンダイアローグ論は傾聴している。オープンは実は垂直方向でもある、そうでなければ意味がない。たとえば僕が自身の病のことをオープンの場で語るとする。それを他者がふむふむと聞く、それだけでも自己に作用する効用がある。しかしそれで終わるはずがない。他者は自分自身の病のことに思いをはせ、自己の奥深い場所に下りてゆく。そこが「ディーセンシィ(decency)」なのだ。
「人倫」とはしたがって「ディーセンシィ(decency)」に関与する。
アイザック・ディネーセンの「ディーセンシィ」を引用した大江健三郎を忘れることができない。『河馬に噛まれる』の最終章にある。僕は当時、直接ディネーセンの原本にあたって確かめた。(昭和60年)
少し長くなるが作中の大江訳で、タイピングします。

バークリー・コールと私とは、私ら仲間うちの言葉で立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)と品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)とをはっきり区別し、私らの知っている者たちを、人間であれ、動物であれ、この原理にしたがって区分けしていた。私らは家畜を立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)に、野生の動物を品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)ととらえた。そして前者の存在と特権は、かれらの共同体(ルビ:コミュニティ)との関係で決定されるけれども、後者は神との直接の接触のうちに立っている、と考えていた。

私らは自分たちを野生の動物の側に登録していた。共同社会つまりは譲渡抵当にサインするほうへ復帰することが、私らにはなしえぬことを悲しく認めながら、しかし周囲による最高の評価をかちとるためですら、神との直接の接触を断念することは、私らに可能でないと確認して。私らが河馬やフラミンゴとわけ持っている神との直接の接触を。

NEOKINO

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SONYα7sとNEOKINO。
すべては効果だ、といったのはドゥルーズです。どこで?と言われてもちょっと。w
シャシン行為も効果です。差異と反復それ自体が効果になります。爺はせっせと通い、粘着する。
何の益体もないことでもそこに効果が存在する、というわけです。



でも上の絵はシャシン行為の効果というよりこのようなディスプレー行為の効果が先行しますね。アタマが下がる。NEOKINOはそれに気持ちよく同調する。







哲学とは何か

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長文注意。
ドゥルーズを「出来事」の哲学者、といったのは誰であったか。事象をまさに「出来事」ないしは「事件」として感じ取ること、それは僕にもさいさいある。あきらかにドゥルーズを知る以前にはそのような感慨はなかった。既存の概念の配置(布置)を変更する。そこに新味の視界がひらける。そこに新たなプラトーがみえてくる。それが「生成」なのだろう。きっかけは特異点なのか、襞に潜む電子なのか、シナプスを飛び交う言い表せないものなのか・・。

インダスター。これはいわゆるゼニット型のレンズだと思う。バリエーションは豊富。60年代なのだそうだ。知人の手になる改造をじっくりみていただこう。前面の前玉。シリアルのそばに突き出たピン。これが絞りを制御。



裏面の後玉です。取り付けのM42リングには、ASAHI PENTAX JAPAN の刻印があります。



側面。パンケーキです。



ドゥルーズの「アジャンスマン」はまさに組み合わせのことです。偶然で、潜勢的なものが支配する。手近のパーツからこれかな、とアレンジするがしかしそこには「偶然」「記憶」「経験」とイマージュがひしめいている。製作過程にはすべからく「差異」がある。彼の作り出す個物には「再生産」がない。使用者には「同一性」から解放された新規の驚きが待ち受けている。

僕がこんなことを書くと他者は、「もちあげている」と思うかもしれない。そうではないことを知っているのは僕なのだからその誤解を解くすべはない。実際、当の製作者からして(知人ではあるが)、布置の変更による「効果」を十全に賞味しないうちに手放すものと思われる(ごめんなさい)。製作されたレンズの「効果」はもっぱらそれを使用した者に発生するから・・。
(製作者は使用者と異なる場で、使用者と異なる「効果」を獲得している、ということは言うまでもない)

諸氏よ。ここに「哲学」が暗躍するのです。
「哲学」は身体と精神を駆使して生きる営みです。哲学史を読み解くことではありません。とりわけ自己の生の最終局面に近づくと強く感ぜられるのです。
ドゥルージアンのあなたならお分かりでしょう、僕がファインダに見出すものはむろん「効果」です。それはあの「結晶イメージ」につらなる身体と精神の様態そのものです。現働と潜在に翻弄されるがごとき「効果」です。ここブログ言表には宿りきれない「経験」です。
「エチカ」でスピノザは、わたしたちは身体と精神のことについて何も知らない、と言ってます。そう。知らない。何か「出来事」のなかで飛び去るかのように過ぎてゆく身体と精神、そこに生息するしかない。

作例をひとつ。解放での撮影。テッサー型の特徴があるかな。

切片たるあなた

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(NEX-7/Summaron f=3,5cm 1:3,5/SILKYPIX)

「ひとつの職務というのは堅い切片である。
しかしまた、その下を何が通過するのか。
もろもろの切片と合致しないどんな接続が、
どんな引力が、どんな斥力があるのか。
秘密でありながらも、
たとえば教授、あるいは裁判官、弁護士、会計士、
家政婦といったような公的な権能と関係のある
どのような狂気があるのか。」
(『ディアローグ』ドゥルーズの思想 江川+増田訳 河出文庫)

様態の変容(変様)

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(NEX-7 VISO ELMAR 65mm/3.5 属性:酒類)

「属性」というものがある。
人であるか植物であるか。
男であるか女であるか。
会社勤めか自営業か。
単身か同居人ありか。
アナログかデジタルか。
手動か自動か。
現代の研磨か手磨きのレンズか。
化学調味料が使われているかそうでないか。

そのような区別があり、属性が決定付けられる。
男性ならばその属性に沿ったトイレに入る。
間違えればトラブルが起きる。(僕は間違えた)
属性に応じて男のトイレに入れば、つまり
適正な「様態」であれば、
僕は女性から睨まれることはなかっただろう。

しかし様態は変容(変様)する。
触発の波を受けた属性はカガク変化する。
女性の服をまとい、化粧をする。
乳房、性器ですらもカガク変化する。
すると彼は属性「女」に成ってゆく・・

これ、なに?の経験が多いほど
たましいは豊饒に触れるだろう。
僕はそう信じている。

ヒト=物

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(NEX-7 VISO ELMAR 65mm/3.5)

NEX-7=ビゾ用レンズのテーブルフォト。
属性が分からなくなることにもなる。
もともと属性とその様態は
「これなに?」のトポグラフィックなものなのだ。
猫に僕はどのように見えてるのだろう?
そんな素朴な不思議の中に
ヒトの属性と様態の特異な連鎖を解するヒントが
あるのだろう、と考える。
少し思いを凝らせば、ビゾレンズでみた世界は
僕たちの様態とほとんど同じものだということに
思い至るかも知れない。もしかしたら、だが。

僕たちはまずは物体であり、最後も物体で閉じる。
閉じる?いや、焼失(消失)、かな。
卓上の物体がいつか雲散霧消するように
ちょうどそのように僕たちは消えてゆく。

ドゥルーズ覚書

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ドゥルーズをはじめて知ったのは
浅田彰の『逃走論』だった。そのあと『構造と力』を読む。
たまたま開いた「石原8年誌」に
ドゥルーズの『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』を
1996年10月にまとめて買った記録があった。
情景は記憶にある。1万2千円!だもんね。
雑誌で(誌名は失念)『千のプラトー』弟1章の抄訳を読んでいたので
まとめ買いは観念・覚悟のアクションなのだろう。(笑)

1996年といえば、まだ僕はLCマックでパソコン通信を
やっていた。ニフティのログイン・ログオフの時代だ。

天体の 冥くひそめる 時間帯 スバルのごとき われのログイン

そんなころのウタ。照れますなあ。
インターネットに移行したのはYosemite(青白マックG3)からだから
1998年になる。
ドゥルーズを僕に知らしめた浅田センセには
それこそどんなに感謝しても足りないくらいだ。
ドゥルーズとの出会いは、
高校時代の文学や聖書との出会い以上のものがあった。
真の意味で
僕の中でようやく形而上学や実存主義が終わったのだ。
思えば
新宮一成を通じて「精神分析」に接近したのも同じころ。
構造主義が席巻し、後戻りは消去され
「大きな物語」も終焉し・・とあれこれを迂回しつつも
ニンゲンというものがどんなイキモノなのかを
ドゥルーズと精神分析で学んだ。40代半ばにね。
この2項は、僕にはイニシエーションなのだと思う。
青春・朱夏期が文学と聖書ならば
白秋・玄冬期がドゥルーズと精神分析なのだ。
現代思想といっても、デリダでもなくフーコーでもなく
やはりドゥルーズだったのだ。

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