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Results tagged “ドゥルーズ的成瀬巳喜男” from 新地のドゥルーズ

ドゥルーズ的成瀬巳喜男

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ものを創る人間が一連の不可能事によって
喉もとをつかまれていないとしたら、
その人は創造者ではありません。
創造者とは、独自の不可能事をつくりだし、
それと同時に可能性もつくりだす人のことです。
発見するためには、マッケンローのように
壁に頭をぶつけていなければならない。
壁がすりへるほど頭をぶつけなければならないのは、
一連の不可能事がなければ逃走線、あるいは
創造という名の出口を、そして真理を成立させる
〈偽なるものの力能〉を手に入れることができない
からです。
『記号と事件』(文庫版)

では成瀬巳喜男の「娘・妻・母」。
原節子、40歳。
2年後に、「忠臣蔵」=りく役を最後に銀幕を去る。
降りる時期を知っていたのだと思う。

ドゥルーズ的成瀬巳喜男

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だから私は想像界の概念が
それほど重要であるとは思っていません。
想像界の概念は、一方では物理的、化学的、
あるいは心的な結晶作用を前提にしています。
想像界の概念によって規定されるものは何もなく、
逆に想像界の概念のほうが、交換回路のかたちを
とった〈結晶イメージ〉によって規定されるのです。
想像するということは、〈結晶イメージ〉をつくる
ことであり、映像を結晶と同じように機能させる
ことなのです。
ヒューリスティックな機能をはたすのは想像界では
なく結晶のほうであり、それは現働的なものと
潜在的なもの、透明と不透明、そして核と媒質という
三重の回路によって可能になるのです。
『記号と事件』(文庫版)

ドゥルーズとちがって僕は「もうひとりの小津」、
すなわち成瀬巳喜男の映像を愛する男です。
ドゥルーズは成瀬を知っていただろうか?

「女が階段を上る時」の結晶も、暗く重い。
だが僕の傾向であり、実は豊かなものなのだ。
銀座のママが、妻子持ちのしがない男にだまされる、
以下のシーンはそれを知るくだりだ。
背景には千住の「おばけ煙突が」みえる。
それだけのシーンだが僕にはよろしい。

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