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ドゥルーズの転回

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『ドゥルーズ/ガタリの現在』の中には
「ドゥルーズ哲学における <転回> について」
-個体化論の転変
という檜垣立哉の一文がある。
これは檜垣立哉の持論のようなものだと思う。
後期のドゥルーズから個体化論が消えた、という話だ。
納得できる論攷です、はい。

僕はドゥルーズをその「後期」からはじめたからか
『差異と反復』『意味の論理学』の「現象の理路」を
取り込むことにまったく抵抗がなかった。
たぶん僕がいい加減なんだ。

今年の初夢は
背中に皮膚がんができた、というものだった。
「身体への配慮」を乗り超えようね、といいながら
夢ではしっかりうなされる。笑えるハナシだ。
夢はあれは無意識がなせるわざだ、とするなら
どのみち僕の範疇外のことだ。
夜中の3時だったので、もう起きようかとも考えたが、寝た。

夢の後先では「内在平面」に少しの差異が生じたろうか?
ちょっとわからない。
どちらにせよどうにもならない。
「内在平面」「存立平面」に関して言えば、
リゾームのひとことで僕は処理する。

さらに、個体化については「理路」を問わない。
いや実際は問うているのだと思う。が、深追いしない。
願望だが、個体化、すなわち「受肉」はこれを受け入れる。
願望だが、運命を受け入れる。
願望、ですよ。

「テクストは、超越への嫌悪とともに、内在平面の露呈に
繋がるかぎりでの実践として捉えられる。もはや、「主体」や
その知覚が成立することの理路が問われるのではない。
端的に動物になること、知覚しえぬものになることが重要である。
それは哲学ではなく、実践としての倫理なのである。」
檜垣立哉 前出「転回」

その通りなのだ。
大げさに言えば
ドゥルーズを生きよう、と思う者がいれば、
その者にとっては概念を超えたこれは「倫理」に他ならない。
とはいえ、僕はこれからも出来事の発生について
思い続けることに変わりはない。

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