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スプートニクの恋人

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 「本書は1999年4月20日、小社より刊行されました。」:奥付の手前のページにそう記されている。


(α7R/FUJINON 1:1.9 f=4.5cm)

 そのころ僕は写真展の準備のために、半切バライタ紙とともに暮らしていた。まさに1999年の春だ。村上春樹を読むのをやめてからだいぶ経っていたとおもう。1990年代に入ると僕は小説やら詩などから離れて現代思想書を読み始めたからだ。それどもまだ「ユリイカ」は取り続けていた。「スプートニクの恋人」の存在はもちろん知っている。先日ジュンク堂2階のシアトルズベスト向きのカウンタにこれを手にして座ったとき、これはたしか読んだよな、と思ったほどだ。でも数ページ読んで「そうでもない」ような気がしてきた。まあ文庫棚の下に平積みされていて真新しい(あたりまえ)輝きの視線で僕に迫ってきたのも何かの縁だ。そうおもって買った。いつもはカバーを付けてもらうのだが、なんでかわからんが、いいです、と言ってしまった。(ジュンク堂のレジは10人くらいの店員が応対する。カバーはおつけしますか? とかならず問う)

 昨日読みあげた。変な話やっぱり以前読んだのかそうでないのか判然としなかった。そんなハナシってあるかい? とアナタは言うかもしれませんが、そうなんです。アナタにはそんな経験はありませんか? 実際に小泉義之の「ドゥルーズの哲学」(講談社現代新書)が2冊ある。スプートニク号の表紙の本がウチにあったような気がする。なによりミュウとすみれ、この二人に見覚え、じゃない聞き覚えがある。・・・。まあどうでもいいか。300ページを超えるが急転直下のラストシーンは3ページだ。なかなかのラブ・ストーリーです。ラストシーンのほんの少し前にこんなくだりがある。
 「すべてのものごとはおそらく、どこか遠くの場所で前もってひそかに失われているのかもしれないとぼくは思った。少なくともかさなり合うひとつの姿として、それらは失われるべき静かな場所を持っているのだ。ぼくらは生きながら、細い糸をたぐりよせるようにそれらの合致をひとつひとつ発見していくだけのことなのだ。」

 うーむ。比喩のようで比喩はない。諦念はあるものの静謐で端正な観念がコトバとなっている、そんな感じだ。あちら側とこちら側にまたがって生きている感覚を現実のものとして受け入れる。それはそのまま死の受容ともいえるだろう。なんとは無しにフーコーの死を思った。「かさなり合うひとつの姿」を手にしてフーコーは死んでいったのではないだろうか? と、そんなふうに思うのである。

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