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α7sに市販のLEICA R-NEXアダプタ、純正エクステンダー、カナダライツ製のMCRO ELMARIT-R 60mmF2.8の順につけている。全長はこうです。先日知人からエクステンダーを頂戴したので使ってみようと。MCRO ELMARITであればエクステンドしなくともいいのだが、「超常現象」をしたくてですね。w



「現代思想」は「コミュ障」特集。中に、國分功一郎と千葉雅也の対談があります。ここはラストの部分。意外やヘーゲル、人倫、ディーセンシィ(decency)が出てくる。
30代(千葉)と40代(國分)ですからたのもしい。内容は豊富で、オープンダイアローグ、貴族論、コミュニケーション障害のこと、教育論・・。拡大画像で読めます。上段と下段。





さて。すいません少し自分のこと。僕自身、「コミュ障」を飼いならしつつ生きている。「さ、一緒にやりましょう」は苦手。今をときめくオープンダイアローグ論は傾聴している。オープンは実は垂直方向でもある、そうでなければ意味がない。たとえば僕が自身の病のことをオープンの場で語るとする。それを他者がふむふむと聞く、それだけでも自己に作用する効用がある。しかしそれで終わるはずがない。他者は自分自身の病のことに思いをはせ、自己の奥深い場所に下りてゆく。そこが「ディーセンシィ(decency)」なのだ。
「人倫」とはしたがって「ディーセンシィ(decency)」に関与する。
アイザック・ディネーセンの「ディーセンシィ」を引用した大江健三郎を忘れることができない。『河馬に噛まれる』の最終章にある。僕は当時、直接ディネーセンの原本にあたって確かめた。(昭和60年)
少し長くなるが作中の大江訳で、タイピングします。

バークリー・コールと私とは、私ら仲間うちの言葉で立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)と品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)とをはっきり区別し、私らの知っている者たちを、人間であれ、動物であれ、この原理にしたがって区分けしていた。私らは家畜を立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)に、野生の動物を品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)ととらえた。そして前者の存在と特権は、かれらの共同体(ルビ:コミュニティ)との関係で決定されるけれども、後者は神との直接の接触のうちに立っている、と考えていた。

私らは自分たちを野生の動物の側に登録していた。共同社会つまりは譲渡抵当にサインするほうへ復帰することが、私らにはなしえぬことを悲しく認めながら、しかし周囲による最高の評価をかちとるためですら、神との直接の接触を断念することは、私らに可能でないと確認して。私らが河馬やフラミンゴとわけ持っている神との直接の接触を。




 せんに、フェリックス・ガタリの「集合的発話者」のことを記した。その前段を「自炊」しておきます。
「シニフィアンの体系を拒絶なさる埋由はどこにあるのか、答えていただきたいと思います」に応答してガタリが語る場面。

「それは、シニフィアンなんて何の役にもたたないからさ。
そう思っているのはぼくたちだけではないし、ぼくたちがそう言い出したわけでもない。フーコーをみればわかるはずだ。最近出たリオタールの本もそうだし。
ぼくたちのシニフィアン批判がわかりにくいものに見えるとしたら、それはシニフィアン自体がどんなものでも古めかしいエクリチュールの機械に切りFげる散漫で観念的な存在にすぎないからなんだ。
シニフィアンとシニフィエを分かつ排他的で拘束力の強い対立関係には、エクリチュールの機械とともに浮上してくるシニフィアン帝国主義の亡霊がつきまとっている。そうなるとどんなものでも文字に関係づけられてしまう。それこそ専制的超コード化の法則そのものなんだよ。
ぼくたちの仮説はこうだ。暴虐をきわめた専制君主の表徴(エクリチュールの時代)が後退して、そのあとに広野がひらける、そしてこの広野がミニマルな要素群と、要素相互間にはりめぐらされた一定の関係性とに分解される。こう仮定してみれば、暴君のように恐怖政治をおこない、去勢の影をちらつかせる、そんなシニフィアンの性格だけは、すくなくとも説明できるからさ。大規模な帝国につながっていくという意味で、シニフィアンというのはどうしようもない擬古主義だよね。
ぼくたちは、シニフィアンが言語を考えるうえで有効かどうか、それすら疑わしいと思っている。だからこそ、ぼくたちはイエルムスレウのほうに傾斜していったんだ。イエルムスレウは、もうずいぶん前に、内容と表現からなる流れがあって、シニフィアンなしですませることのできる、いわばスピノザ派の言語理論を構築していたわけだからね。つまり内容と表現からなる連続的な流れのシステムとして言語をとらえ、このシステムが、離散的で 非連続な形象を組み合わせた機械状アレンジメントと合致していると考えたわけだ。」

そのあとに「今度の本ではくわしく説明しなかったこと・・・」となるわけです。

絵はα7sにリコーGR28mm(F11相当固定絞り)。知人にゴミを除去していただいた7s。
(上)ピントは正面建物。いや、よく写すレンズだ。7sでこうだからねえ。
(下)ひとりでメシ喰う。茶碗にCubeのインジケータが写り込む。そんなシーンを偏愛する。w

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地上の夜の天使たち

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