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ガタリ 集合的発話者

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 「今度の本ではくわしく説明しなかったことがある。それは言表行為の主体と言表の主体をへだてる断絶を乗り越えるような、言表行為における集合的発話者の考え方だ。」

今度の本というのは「アンチ・オイディプス」か「千のプラトー」か判然としないが後者じゃないかと思う。 ガタリの発言で『記号と事件』のなかにある。

直感的に言うが、一般的に信じられているほど人に「人格」が備わっているわけではない。これはとても大事なことだ。
人に連続的な同一性(昨日のA氏と今日のA氏の同一性)は実はないのです。だって「えっ? あの人はとてもおとなしくそんな事件を起こす人には思えない」というような話題はざらでしょう。それがホントなのです。人は「こんなふうにある」のではなく「こんなふうになる」のです。
「ある」は存在論、「なる」は生成論ですね。人は「そうなる」のであって「こうある」のではありません。
そう考えると先の「言表行為における集合的発話者」ががぜん輝きを増す。

たとえばのハナシこの記事(ブログ表象)の主体は「ぼく」ですが「ぼく」ってどれだ。よくわからないでしょう?
卒業式の校長式辞の主体はだれだ?校長の信念?来賓の評判?県や国の意向?保護者の?
式辞を述べる人はまさに集合的な発話者となり「式辞をのべる人」になっているのです。
言表は幾重にも織り込まれている。

絵は7sとコダックのエクターektar 50mm3.5。

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