" href="http://hisaaki.net/mt/cgi-bin/mt-search.cgi?search=%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E9%9A%9C&Template=feed&IncludeBlogs=2" />

Results matching “コミュ障” from 新地のドゥルーズ



大黒岳彦『情報社会の〈哲学〉』読了。

これまで大黒岳彦を「現代思想」でいくつか読んできた。AIとか、コミュ障とか。
で、先の「現代思想の316冊」の「不可視の社会を如何にして・・」ですね、特にP37以降のグランドセオリーについてのキーワード①以降の「まとめ方」にぐっときた。
情報社会(世界社会、社会の社会)のシステムを哲学のイシューとして提示してくれる。僕にはこれが嚆矢だ。

さて、本題には関係ないことをひとつ。
大黒岳彦の文には特徴がある。たとえば、括弧やルビが多いこと。哲学ゆかりの古代ギリシャ語が多いこと、うんぬん。
それがこんな結果をもたらす。見本のスキャン画像ををふたつ。





上が『情報社会の〈哲学〉』、下が去年の「現代思想」8月号の「コミュ障」のもの。
どちらも2行目に注目。行の割り付けが変でしょう?
推測ですがこれは、テキストをQuarkXPressに流し込むときに、なっちゃうんですよね、たぶん。
これは校正でなんとかならないのですかねえ。些細なことです。でも眼に立体的に(3次元の効果となって)飛び込んでくる。うーん。


α7sに市販のLEICA R-NEXアダプタ、純正エクステンダー、カナダライツ製のMCRO ELMARIT-R 60mmF2.8の順につけている。全長はこうです。先日知人からエクステンダーを頂戴したので使ってみようと。MCRO ELMARITであればエクステンドしなくともいいのだが、「超常現象」をしたくてですね。w



「現代思想」は「コミュ障」特集。中に、國分功一郎と千葉雅也の対談があります。ここはラストの部分。意外やヘーゲル、人倫、ディーセンシィ(decency)が出てくる。
30代(千葉)と40代(國分)ですからたのもしい。内容は豊富で、オープンダイアローグ、貴族論、コミュニケーション障害のこと、教育論・・。拡大画像で読めます。上段と下段。





さて。すいません少し自分のこと。僕自身、「コミュ障」を飼いならしつつ生きている。「さ、一緒にやりましょう」は苦手。今をときめくオープンダイアローグ論は傾聴している。オープンは実は垂直方向でもある、そうでなければ意味がない。たとえば僕が自身の病のことをオープンの場で語るとする。それを他者がふむふむと聞く、それだけでも自己に作用する効用がある。しかしそれで終わるはずがない。他者は自分自身の病のことに思いをはせ、自己の奥深い場所に下りてゆく。そこが「ディーセンシィ(decency)」なのだ。
「人倫」とはしたがって「ディーセンシィ(decency)」に関与する。
アイザック・ディネーセンの「ディーセンシィ」を引用した大江健三郎を忘れることができない。『河馬に噛まれる』の最終章にある。僕は当時、直接ディネーセンの原本にあたって確かめた。(昭和60年)
少し長くなるが作中の大江訳で、タイピングします。

バークリー・コールと私とは、私ら仲間うちの言葉で立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)と品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)とをはっきり区別し、私らの知っている者たちを、人間であれ、動物であれ、この原理にしたがって区分けしていた。私らは家畜を立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)に、野生の動物を品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)ととらえた。そして前者の存在と特権は、かれらの共同体(ルビ:コミュニティ)との関係で決定されるけれども、後者は神との直接の接触のうちに立っている、と考えていた。

私らは自分たちを野生の動物の側に登録していた。共同社会つまりは譲渡抵当にサインするほうへ復帰することが、私らにはなしえぬことを悲しく認めながら、しかし周囲による最高の評価をかちとるためですら、神との直接の接触を断念することは、私らに可能でないと確認して。私らが河馬やフラミンゴとわけ持っている神との直接の接触を。

photo pages

photos

地上の夜の天使たち