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Results matching “インダスター” from 新地のドゥルーズ

ウチには工房提供のロシアレンズがけっこうある。インダスター=Industar22。このモデルは1951年頃のものらしい。



2022年5月1日の庭。以下はα7sとインダスター22で。いいレンズですねえ。















ライカⅠ型から工房で抽出したElmarで撮影したインダスター=Industar22の相貌。保存状態がよく鏡筒もレンズもピカピカ。このモデルは1951年頃のものらしい。



ついで。逆にインダスター=Industar22で抽出エルマーの姿を。距離面のケガキを写している。



以下はα7Rとインダスターで。実にシャープ。レンズはテッサーのコピーということらしい。













フェドのインダスター 5㎝ F2.8。ライカマウント。コントラストが高くシャープ。カラーは色補正なし。









インダスター 5㎝ F2.8 26M

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フェドについてくるインダスター 5㎝ F2.8のようです。26Mという表記があります。ウクライナから着いたばかりを知人から頂きました。Biogon35mmで撮影。距離計連動。すぐにも使えます。(と思いますw)





事前にクセを確認しました。ではそのインダスターをα7sで。きょうはスナップを目的に。











NEX-7 インダスター69 28mm

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知人が届けてくれたインダスター69。28mmのF2.8です。
検索する。えっ?これはハーフ用なんですか?
とりあえずNEX-7で台風のさなかに実験撮影。(1/100秒でも揺れがある)
L39-NEXアダプタを使用。F5.6だがピントに自信がない。最短距離に近い。







反復 リトルネロ

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α7sのテーブルフォト。かかる内的な衝動は常にある。
冗談ではなくスピノザに連なる「情動」なんです。生成されるリトルネロ。そして我という存在が効果としてそこにあるのを感じる。w
差異が発生するように撮っているのではない。フツーにレリーズする。すると「差異」があからさまになる。それが愉しいのでありんす。
拡大画像で分かることではありますが、一枚目hama VARIO MACRO LENS35mmとNEOKINO65mm。二枚目FEDインダスター53mmとズームニッコール35-70mm。
ズームニッコールは50mm=開放での撮影。



α7sとFED=インダスター53mm。L39マウント。M39-M42アダプタリングを使用しての接写。



エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロを読んだのはこの論攷が初めてだと思う。たぶん。(「現代思想」1月号)
現在、訳者の近藤宏=明治大学の野生の科学研究所のレポートにパナマの先住民「エンベラ族」の動物的身体について読むことができる。
(しかし「エンペラ族」で検索して出る彼らの観光客密着の画像を目の当たりにすると、つい割引して彼らをみる自分がここにいる)

それはそれとして、先に檜垣立哉・山崎吾郎訳の『食人の形而上学』が当地の県立図書館に配置されてない時点から僕の食指が行きどまりになっていて、そのこと(止まったままの事態)をも僕は忘れていた。
最近になっていくつかのガイドに接し、春頃、池澤夏樹-石牟礼道子-アニミズムのラインを読む経験も重なって「パースペクティヴィズム」を見逃したままで過ごせない気分が高じた。買い求めるしかないなと、さきごろHMV&BOOKS online で注文をしたところだ。



一方これは、BOSEのSoundTouch再生画面。これを閉じても、それどころかPC電源を切ってもBOSEは鳴り続ける。
ラフマニノフ自身が素早く演奏するOp23のNo.5です。youtubeからmp3を抽出したものをBOSEで鳴らせ、空気振動で聴いてます(補聴器無線ではなく)。無駄に320kbpsでエンコしてます。

最後はフツーのテーブルフォト。今日は話題ネタに使ったインダスター53mmでした。

FED インダスター 53mm

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FED=インダスター53mm。L39マウント。α7sで。









SONY ラジカセ ZS-RS81BT

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ソニーのZS-RS81BTというラジカセです。つれあいが島和彦(いましたね!)の「雨の夜あなたは帰る」をNHKできいて懐かしがった。なので小生がyoutubeから。(拡大画像)
ラジカセの名機といわれたCFD-A100 TV(2004年)が壊れた。よってこれを7月4日に購入する。1週間後、2階用にもう一台追加購入。

ラジオ電波受信能力については2004年機に及ぶべくもない。
音質はチャカチャカ。MEGABASSなどというボタンをつけているのが「弱さ」を言い表している証拠。

では利点。
①USBやSDが挿せる。
②Bluetoothでペアリングができる。

ウチにはこのふたつがグッドニュース。
USBにはyoutubeからDLしたmp4からmp3を抽出した曲がつまっている。
③変換のことですが、元ファイルのビットレート以上にはならないらしいから、個人的には128kbpsのmp3でいいのではないかと思う。
④ファイル名がタイトル(例のテロップ)になる。詳細データは入力したほうがいいかもしれない。たとえばWindows Media Playerのプレイリストに加えるとBOSEでそれを引き継ぐ。ジャンルもClassicとかJPOPとか入れておくとBOSEの方で振り分けている。
⑤ホロヴィッツの1949年のリサイタル、1965年のカーネギーホールでの復活リサイタル、それと極め付き1968年のTVコンサートをSDカードに入れてキューブ車載で聴いてみた。いけますね。

絵と本文の関係はなし。α7sとインダスター61。絞ってます。変換リングを使いテーブルフォト。

インダスター 50mm

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インダスター。沈胴式ライカLマウントだと思われる。知人製作。M42。
この個物も「作り」にしびれます。プラスティックですからね。配管用のチューブのようです。





以下作例。室内は7s、外は7Rです。









M42改造 Carl Zeiss Tessar 2,8/50の絞りはココ。(隣のレンズはインダスター)



以下α7sと。「ココ」位置の絞りで撮影。









荒れ模様で当地の名峰も雪化粧。(等倍)



いいですねえ、テッサー。
7sとロシアレンズのインダスターです。50mm3.5。









これはロシアレンズのインダスターです。50mm3.5。(拡大画像あり)7sとH.ROUSSELの75mmで撮影し、SILKYPIXのハードモノクロで処理。



iPhoneサイズで面を。



知人によるM42マウント改造です。ライカマウントのレンズから抽出したのかなあ。不明。製造番号付近のピンが絞り環を動かします。無段変速みたいな動きです。テッサーのコピーということですからいつかテッサーと撮り比べてみたいブツです。下のはこのインダスターでH.ROUSSELを逆撮りしたものです。これもハードモノクロ処理です。なんだかバカみたいな遊びですが、これが爺の本性です。w



インダスター 50mm/3.5

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α7sとインダスター50mm3.5。普通に絞っています。





哲学とは何か

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長文注意。
ドゥルーズを「出来事」の哲学者、といったのは誰であったか。事象をまさに「出来事」ないしは「事件」として感じ取ること、それは僕にもさいさいある。あきらかにドゥルーズを知る以前にはそのような感慨はなかった。既存の概念の配置(布置)を変更する。そこに新味の視界がひらける。そこに新たなプラトーがみえてくる。それが「生成」なのだろう。きっかけは特異点なのか、襞に潜む電子なのか、シナプスを飛び交う言い表せないものなのか・・。

インダスター。これはいわゆるゼニット型のレンズだと思う。バリエーションは豊富。60年代なのだそうだ。知人の手になる改造をじっくりみていただこう。前面の前玉。シリアルのそばに突き出たピン。これが絞りを制御。



裏面の後玉です。取り付けのM42リングには、ASAHI PENTAX JAPAN の刻印があります。



側面。パンケーキです。



ドゥルーズの「アジャンスマン」はまさに組み合わせのことです。偶然で、潜勢的なものが支配する。手近のパーツからこれかな、とアレンジするがしかしそこには「偶然」「記憶」「経験」とイマージュがひしめいている。製作過程にはすべからく「差異」がある。彼の作り出す個物には「再生産」がない。使用者には「同一性」から解放された新規の驚きが待ち受けている。

僕がこんなことを書くと他者は、「もちあげている」と思うかもしれない。そうではないことを知っているのは僕なのだからその誤解を解くすべはない。実際、当の製作者からして(知人ではあるが)、布置の変更による「効果」を十全に賞味しないうちに手放すものと思われる(ごめんなさい)。製作されたレンズの「効果」はもっぱらそれを使用した者に発生するから・・。
(製作者は使用者と異なる場で、使用者と異なる「効果」を獲得している、ということは言うまでもない)

諸氏よ。ここに「哲学」が暗躍するのです。
「哲学」は身体と精神を駆使して生きる営みです。哲学史を読み解くことではありません。とりわけ自己の生の最終局面に近づくと強く感ぜられるのです。
ドゥルージアンのあなたならお分かりでしょう、僕がファインダに見出すものはむろん「効果」です。それはあの「結晶イメージ」につらなる身体と精神の様態そのものです。現働と潜在に翻弄されるがごとき「効果」です。ここブログ言表には宿りきれない「経験」です。
「エチカ」でスピノザは、わたしたちは身体と精神のことについて何も知らない、と言ってます。そう。知らない。何か「出来事」のなかで飛び去るかのように過ぎてゆく身体と精神、そこに生息するしかない。

作例をひとつ。解放での撮影。テッサー型の特徴があるかな。

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