ユーザー (#1)2013年12月 Archives

MACRO-ERMARIT-R 60mm

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 レンズ=ブツを撮って、ハードモノクロで出して、それで終わり。あはは。いいなあそんなシリーズ。


(α7R/MACRO-ERMARIT-R 60mm/SILKYPIX)

GR1 分解 レンズ抽出

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 GR1sのパーツ。残骸は美しいじゃないか。そのシーンを、抽出したレンズ=NEX-7にて撮る。



(NEX-7/GR28mm改/SILKYPIX)
 見よ、この最短15cmを!。

(NEX-7/GR28mm改/SILKYPIX_toycamera)
僕は少数派か? しかも普遍的な形態を渇望する男か? おいおい、いきなりなんだよ。うーむ。20年以上も前のことですが、リコーGR1が出た。すぐに入手。トライXを詰めて撮りまくった。それを使ってなにがしかの賞をゲットしたくらいだから、GR1には特別な思い入れがある。そしてこんにち、男はそれを解体し、α7Rに使えるようにとレンズだけを抽出する。(もちろん専門家の手による改造です)。これがアレンジメント(アジャンスマン)でなくて何だろう? GR28mm(改)は男様態(改)と生成変化する。
 さて。Epson Print Plug-In for SILKYPIXというモノがある。拡大してご覧あれ。プリンタは5Vです。FUJIのポストカード「画彩」は5V側で用紙厚を3→2に調整します。(にじみが出ない:ちなみにポストカード「画彩」の紙厚は0.22mm:「画彩」はカッサイと読む)


 SILKYはバージョン5.0.52.0でα7Rに対応。(バグあり)。これのシネフィルム 70'sてのを使った設定です。モニタ、エプ、ソニーのガンマとかを揃えて、EIZOの輝度は30%くらいにすると5Vが黙ってモニタ通りに出力する。ああ、なんというシアワセな時代であることか! メリー・クリスマス!

(α7R/GR 28mm)

GR 28mm改造 α7R

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(5Dmk2/EF24-70mm f2.8/430EZ)

 リコーのGR1を解体して、α7R用にレンズだけ抜いてもらいました。世界に1個しかないでしょうね、これは。今日、師匠が個物を届けてくれました。5.6あたりの固定絞りになります。無限遠も出してもらってる。28mmレンズで接写もないけど、ともかくレポートに一枚。うん、いけますねえ。もともとGR28mmは最短撮影距離は35cmなのだが、改造で15cmくらいになっている。すごい、としかいいようがない。

(α7R/GR 28mm)

 次なるは定点観測。橋の下から撮る。街灯の捉え方が明らかに不自然だ。広角レンズ(28mm以下)の周辺光をα7Rがどう捉えるか、これは見本といえます。限界かなあこれが。絵はSILKYPIXのシネフィルム(70's)というテイストを使用。

(α7R/GR 28mm)

 ここまで寄れる。約15cm。

(α7R/GR 28mm)

「少数派の意識の普遍的な形態が存在する」と、ドゥルーズ=ガタリは言っている。(「千のプラトー」宇野他訳 P126) 僕はこれを、《少数派の者たちの間に響き合う通奏低音》のようなものだ、と解している。その線が出るかどうかをさぐりながら、他者と接触している。自己は精神も身体も他者との間でそのつどその場で立ちあがる。存立する。関係が沸き立ち、修正の線もその場所で出るかもしれないし、後になって出るかもしれない。全局面でアレンジメント(アジャンスマン)、リゾーム、器官なき身体が作動する。「存在の一義性」っていうのも、これらを全面的に承認することだと理解する。あまりに大雑把でごめんなさい。そもそもの最初からそう考えて、今も変わらない。認識はどっちにころんでも「誤認」なんだから、まあいいか、と。

 じゃ、その「形態」を具体的にというと、困る。言葉にできないのだ。確かフーコーが「闘争」について問われて、私もそれを今考えているのです、と率直に応える場面がありました。(どこと言われても・・)だから、《今それを考えているのです》というのは苦境(?)をそのまま受け入れる態度かもしれない。そして「少数派」の意識をまとったまま一生が終わる、ということになりそうな気がする。



(α7R/ERMARIT 1:2.8/90 SILKYPIX retro_taste)

 これも拡大してどうぞ。被写体個物はSonnar85mm/f2 です。Nr.2624***が見えます。(自慢してる、あはは)撮影レンズはERMARIT90mm/f2.8です。これまでは、ERMARITをEOSのフルサイズで使っても、ピント合わせにに難儀していた。いつのまにかERMARITは「蔵」に・・。α7Rのおかげで今回復権、ご寵愛を受けること間違いない。まさにアジャンスマン。ERMARITの線が出て、屹立する。

 さて、くだんのSonnarですが、鏡胴は改造してるのであの樽型ではありません。ピントリングにはソニーのビデオパーツを流用してます(笑)。ま、要は写りですからね。抜け殻となったその樽とはこれです。ERMARIT90MM f2です。

Hologon 1:8 f=15mm

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(α7R/Sonnar 1:2 f=85mm/SILKYPIX)

 拡大してどうぞ。おわかりでしょうか? あの Carl Zeiss Hologon 15mm/F8 です。ebayでも50万とか100万とかいうあれです。LM-NEXマウントでいけます。さて、この紹介シャシンはというと、α7RにM42マウント改造の Carl Zeiss Sonnar 85mm/F2 なのです。Hologonは借りものです。Sonnarはゲットしました。5.6あたりで撮ってます。ISO6400・1/100秒。

 いやはや、こんな記事を書けるんだ、僕にも。(笑)。 Hologonのハナシはいつかまたいたします。ゲットしたSonnar 85mmのことですが、Nr.2624***で、かのContarexに搭載されてたものです。1958年-1973年に7585本が生産されたそうです。僕は85mm付近の単焦点レンズは初めてです。なんといっても幸せな気分にさせる個物です。

Xenon 50mm

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(EOS5DMk2/EF24-70mm f/2.8L II USM/flash on/ISO200/F5.6/マニュアル露出)

 α7Rに、シュナイダーのXenon50mm/1.9をとりつけました。schneideropticsでみると、1968年製のようだ。うーむ。まさにパリは五月革命、日本では東大闘争の時代。団塊の男は知者であれ愚者であれ、何かを感じて過ごしたはずだ。まさにドゥルーズ、まさにフーコーの時代でもある。個物はExaktaマウントです。これを僕に譲った知人はそのとき「死蔵品」という単語を使った。ぼくは少しドキッとした。託された僕こそが「死蔵」しかねない。そういう68年製のXenonだ。どのような手を経て今のぼくの掌中にあるのだろう? 使うことがすなわち愛でることだ。愛でることで創造の線、生きる喜びの線を出しましょう・・・。とて、今夜はこれでテーブルフォトをします。開放1.9、最短50cmで撮影。こういう条件だとボケが少しうるさいですか。

 F5.6に絞れば、まあシャープなこと!

 眠れずに起きだして、深夜! とんでもない、F2.8でもシャープ。

EF 24-70mm

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 EOS5DMk2/EF24-70だ。発作的に(?)こうやってテーブルフォトをする。ISO1000でPモードでやるとF4.0,1/80sec だ。まあでもため息が出るくらいよく撮れる。雰囲気がどうこう言う前にちゃんと写ることに脱帽。昨日知人と喫茶店に入った折に、ISO1000=モードPでカレを撮ってその設定のまま一枚撮ったというわけだ。昨日の知人もよく撮れていた。マニュアル=ライカレンズ=ピント拡大は、スナップ的なポートレートには無理がある。相手がかたくなる前に撮る必要がある。おしゃべりしながら撮るにはどうしてもオートフォーカスになる。それはそうと知人が僕のα7Rで一枚撮ったがカレはファインダを使わない。E20mm(APS-Cの)をつけてAFだからそれでもいけるのだ。でもなんか可笑しかった。

 あるいはむしろ、つねにフーコーにつきまとった主題は、分身(double)の主題である。しかし、分身は決して内部の投影ではなく、逆に外の内部化である。それは、〈一つ〉を二重にすることではなく、〈他のもの〉を重複することなのだ。〈同一のもの〉を再生産することではなく、〈異なるもの〉の反復なのだ、それは〈私〉の流出ではなく、たえざる他者、あるいは〈非我〉を内在性にすることなのだ。重複において分身になるのは、決して他者ではない。私が、私を他者の分身として生きるのである。私は、外部で私と出会うのではなく、私のなかに他者を見出すのだ。(ドゥルーズ『フーコー』宇野訳 P180)

 ギリシャ人の新しさは、後に、ある二重の「離脱」にむけて現われる。それは、「自分自身を治めることを可能にする訓練」が、力関係としての権力からも、地層化された形態や徳の「コード」としての知からも離脱するときに現われるのである。一方に、他人との関係から派生してくる「自己との関係」があり、他方に、同じように知の規則としての道徳律から派生してくる「自己の成立」がある。この派生物やこの離脱は、自己との関係が独立性を獲得するということだ、と解さなくてはならない。それはあたかも外の関係が裏地を作り、自己との関係を生じさせ、一つの内を構成しようとして、自らを折り畳み、折り曲げるかのようだ。内は国有の次元にしたがって、陥没し、また展開するのだ。つまり「エンクラティア」〔克己〕、克服としての自己との関係は、「人が他人に対して行使する権力において、自分自身にむけて行使する一つの権力である」(もし、人が自身を統治しないとすれば、どうして他人たちを統治することを望めるだろう)。こうして自己との関係は、政治、家族、雄弁、遊戯、とりわけ徳などを構成する権力に対して「内的制御の原理」になるのだ。それは、ギリシャ的な鉤裂きと裏地のタイプである。つまり、このような離脱が摺曲や省察を実現するのだ。少なくとも、これがフーコーの理解したギリシャ人の新しさである。(ドゥルーズ『フーコー』宇野訳 P185)

 引用が長くなった。『フーコー』の終章の部分。とりわけ僕が胸を打たれた箇所。ドゥルーズは言う。

 ―『知への意志』に続く長い沈黙の間に一体何が起こったのだろうか。(中略)彼は『快楽の原則』の胸を引き裂く言葉にたどりつく。「自分自身から離脱すること・・・」―

 僕は他者に出会う。さまざまな機会をとらえ、他者とまじり合う。僕は他者のように生きる。そこにも複雑な権力関係が入り込む。「自己との関係」はその場所でこの僕自身を折り曲げ、裏地を張り、褶曲させ、省察に導く。これが「離脱」なのだ。だがこの「離脱」は死の陰を帯びている。僕は日夜(マジに)このテーマ群を反芻する。僕は老いた。ここを拠点として何の不思議があろう。

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