つげ義春のこと
(α7R//Componon 1:4/35)
PM2.5がひどくてシャシンするような空じゃない。でも気をとりなおして外に出る。港に出向くのはたいがいリハビリのようなもんだ。「定点観測」=とりあえず、でして安直だ。アンチョコにひたすら依存するのは一種の「ビョーキ」ですな。Componon がお供。上の絵のように少しニュアンスが異なる絵ができる。近景だと二線ボケもある。ケラレもある。ケラレがあってはいけないという決まりはない。なんともいえないこのムードが勝る。
路上のブツを撮っていたらもう少し近づきたくなる。いったん家に帰り、Super-Takumarにレンズを変更。
(α7R/Super-Takumar 35mm F3.5)
『必殺するめ固め』を取り出してオブジェとする。伝説となった『ガロ』(68年)を探したがみつからない。
さて。つげ義春の対談中、後年の研究では貧しい人とは「乞食」のことだったのですね、のくだりが気になって調べる。やはり現代教会でもこの話はでている。結論からいえば、つげ氏のいうのが本当だ。僕もおどろいている。「心の貧しい人」(マタイ)と「貧しい人」(ルカ)の違いがあるが、ギリシャ語原本は同じだそうだ。「プトーコス」という語が使われている。
横浜指路教会のwebページには『教会の歴史においてしばしば、「心の貧しい」とは「謙遜な、へりくだった」という意味だ、という解釈がなされてきた。しかしそれは間違い。「謙遜」は、「貧しい」という言葉の意味とは違う。』とある。
極貧者、乞食同然の者を指すのが「プトーコス」のようなのだ。ちなみに貧者をギリシャ語にgoogle翻訳するとやはりそうだ。
アタマがプサイ(Ψ)ではなく、ファイ(Φ)だから「フトーコス」でしょうね、読みは。ううむ、深くやるなあ、つげサン。感謝です。勉強させていただいた。
考えてみればまあそうだ、集まった人間はいわばイエスの奇跡にすがりたい病人、世捨て人、乞食というのが理にかなう。英訳の"spiritually poor" なんかじゃないよ、ってことですな。漁港じゃないがTakumarのもうひとつおまけ。SILKYPIXのインスタントフィルムテイストを使うと空がスカイブルーに。
(α7R/Super-Takumar 35mm F3.5)