フーコーとデリダ

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 D・エリボンの『ミシェル・フーコー伝』(新潮社・田村訳)。P182-183。デリダとフーコーの確執の場面。日本人にはこんなことはまずないでしょうね。フランス人はこうなのでしょう。40代半ばのフーコーですが、デリダに対する容赦なき批判には感情的な面があるが、それゆえにこそ光る真実(あるいは真実味)がある。フーコーはこうなのでしょう。彼こそは「ピカレスク」なのだ。そこに彼の魅力もある。

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 しかし、いさかいは起こった。ただし事後に起こったのだ。いかなる理由でか? それを知ることはかなり難しい。それまではかなり限られた聴衆にしか当てられていなかったこの講演が、一冊の本のなかに再録されたのを見て、同日とうとうフーコーは腹を立てたのか? 何人かの人が、ある推測をしている。フーコーの突然の態度の変化と思われるものを説明できるのはこの推測だけであるとは決定しないまま、しばらくこの推測につきあってみよう。

 『エクリチュールと差異』が出版されたとき、フーコーとデリダはどちらも『クリチック』誌の編集委員会のメンバーだった。デリダのこの本についてのジェラール・グラネルによる論文が編集部に届いたが、これはデリダへの賛辞に満ちているものの、フーコーへの嫌味がいっぱいあった。フーコーはこれに怒り、デリダにこの論文を載せないように頼んだ。デリダは編集委員会の一員として、自分に関係のある論文については口出ししないよう望んで、この介入を拒絶した。論文は掲載される。と、時を置かずにフーコーはデリダが一九六三年に行なった前述の講演にこたえる、非常に激烈な論文をしたためた。

 フーコーが一九七一年に『パイディア』誌に《私の身体、この紙、この炉》という表題で載せた返答がこれである。これは一九七二年の『狂気の歴史』増補版の末尾に再録される。フーコーはこの増補版を「返事が非常に遅れてしまってすまない」という献辞とともにデリダに送った。九年の遅れである! フーコーの、このテクストの結びには、あたかも宣戦布告のごとき響きがある。役割がひっくり返ってしまって、今度は師がかつての弟子を断罪するのである。

 すなわち、「が、少なくとも一つの事柄にかんしては私は同意見である――古典的解釈者たちがデカルトのそのくだりを、デリダ以前に、しかも彼のように消し去ったのは、彼らの不注意のせいではまったくない、という事柄については。それは計画的な仕組によるものである。今日デリダがもっとも決定的で、最後の輝きのなかにある代表者となっているその仕組。すなわち、言説中心の実践をテクスト中心の痕跡へ還元すること、読み方にとってのいくつかの特徴だけに留意するため、その実践で生じている出来事を省略すること、言説への主体の包含関係の様式を分析しなくてもすむように、テクストの背後に、ある声を考案すること、起源にあるものを、テクストのなかで述べられることと述べられないこととして規定し、言説中心の実践を、それがおこなわれる変容の場にふたたび位置づけしないこと。」

 そしてフーコーは、次のような最終的判断を下している。「それは一つの形而上学だ、言説中心の実践のこうした《テクスト化》に隠される形而上学一般、ないしそれの閉じ込めだ、なぞと私は言おうとするのではない。もっと徹底して私はこう言いたいのである。それはきわめて可視的な仕方で明らかになっている、歴史的にはつきり想定れたささやかな教育である、と。子供に向かって、テクストのほかには何も存在しない、[・・・]と教えこむ教育。際限なくテクストを再読することを可能にする無限のあの権威を教師の声に与える教育である。」

 ここでデリダの《脱構築》は、伝統ならびに権威の《復元》活動へと送り返されている。文筆の共和国では、フェンシングの剣先にたんぽをつけて闘われたりはしないのだ。この時から、このふたりの掌者のあいだの断絶は、全面的で絶対的で根本的なものとなり、しかもおよそ十年近くつづくだろう。ふたたび両者のあいだに繋がりがうち立てられるためには、一九八一年プラハで、反体制派によって組織されたセミナーに参加しようとして出向いたデリダが《麻薬所持》で逮捕される事件が必要となる。フランスでの衝撃は大変なもので、政府筋がチェコ当局に働きかける一方、フランス知識人のあいだでも抗議の呼びかけが広まった。フーコーはまっさきにこれに署名したうちのひとりであったし、デリダの行動を支持するためにラジオで語ったりもする。デリダは数日後パリに帰ると、フーコーにお礼の電話をした。それからは彼らはいろいろな機会に顔をあわせる。

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このページは、が2013年3月17日 03:27に書いたブログ記事です。

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