神谷美恵子の驚き

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ジェイムズ・ミラー『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』
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本書を書いたさらに別の理由は、もっと個人的なものだ。
私は、人生の拮抗し合う多様な側面のぎざぎざした縁を
なめらかにならしたり、同一の基準では計れないそれらの
主張の折り合いをつけたりするのを助けてくれるような、
アリストテレス的中庸、プラトン的善の観念、
われわれの推論能力に暗に含まれる倫理的節度、
合意という統制的理想、そういったものはありはしない
という、幸せとはいいがたい確信の持ち主である。
それゆえ、ニーチェの普学は私にとってかねてから
難題であり、挑発であった。
そこに内在する論理が論駁されるのを
私はまだ知らないのだが、その論理からみて、
彼の信奉者たちのいく人かが身をもって奉じたような
残酷できわめて危険な実践をそう簡単に
無視することはできないというただそれだけの理由にせよ。
 アウシュヴィッツ以降、「善悪の彼岸」で
思索的に生きるということは何を意味するのか
という問題は、要するに、探究するに値する問い
なのである。それには、戦後のニーチェ信奉者のうちでも
もっとも革命的な―そして非常に真摯な人物―の生涯を
研究するにまさるやり方があるだろうか。
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『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』の序文から。
テキスト前半の気概が神谷美恵子にあったなら、
フーコーがあれは若書きといったときの「驚き」も
少しは違っていたのかもしれない。
「権力」・「生政治」に関するフーコーを知って
いただろうか?なにより「セクシャリテ」に関する
晩年のフーコーは、聡明な神谷であっても
受け入れることはできなかったのではないか・・
(なくなってはいたけど)
分厚い書物を開いてすぐのこの場所で、
神谷美恵子の「驚き」を思い起こした。
もちろん僕の空想の産物だ。

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このページは、が2012年12月14日 13:35に書いたブログ記事です。

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