語らい

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「語らい」の様態は端的には間主観性のレベル
でなされます。
しかし、ぼくは「語らい」をなによりも
自己との向き合いのなかで感じるタイプです。
したがってこれはぼく固有の概念です。

対象a(たいしょうプチットアー)も
あの黄金律もぼくの場合は、固有の概念で
とらえなおしています。
たとえば他者との「共感」を思ってみると
こうです。
他者のなかに自分を発見することを
あなたも何度か経験されたでしょう。
自分のコアのようなものを他者への「共感」の
なかに見出したことがおありでしょう。
見出されたものは共有できるものでは
ありません。それぞれが把持したものは別物なのです。
間主観とはそういうものですから、
接線(切線)のもつ点は別物です。
よって触れられたものは自己のなかで増殖するに
すぎません。たとえ相手に似たような様態があったと
しても。
ぼくはそれを自己との「語らい」と捉え、
対象aそのものと捉えています。
それを取り逃がさないようにと
自己を構成していきたいと思うわけです。
そう念じて生きることが
そのまま「語らい」を生きることになります。

状況はしかし、常になにがしかの言説・態度を
自己に強いてきます。
おおむね道徳的でステレオタイプです。
それに毒されまいと願っても、しかけは複雑ですから
簡単ではありません。なにしろ状況はいつも
市にひさがれる凡庸な平面をこそ要求するのです。
そういうものなのです。
それが私たちが置かれた領土です。
ですから、
状況を生きるということは、強いられる事物を
爬羅剔抉し、解体し、展開して・・
つまりここに暴きだして、そうして
「語らい」の自己と向き合わせる作業が
必然的に含まれることになります。
それが容易でないことは明らかです。

ちょっと二元論的な捕捉でいけないが
わかりやすく記述するための方便です。ご容赦を。
キーワードは、対象a、語らい、自己の構成、
間主観、生の様式、といったところでしょうか。



(NEX-7 アンジェニュー28mm)

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このページは、が2012年8月17日 06:30に書いたブログ記事です。

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