林あまり

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マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし
身捨つるほどの 祖国はありや

林あまりは高校時代に、国語教科書の寺山修司に
まずは惹かれたのだ。
時代は違っても、同じように「現国」の教科書に
触発されたニンゲンはあまたいただろう。
マッチ擦る、を受肉した彼女は
大学時代に生身を曝すように生きたのだ。
短歌はそんな身体=情動を表象する方法としては
うってつけの道具なのだ。

少しまえの「be」の記事を切り抜いていた。
(拡大画像あり)



マーカーの部分に短歌があります。

なにもかも 派手な祭りの夜のゆめ
火でも見てなよ さよなら、あんた

短歌の自己撞着、ナルチシズム、これはそのまま演歌です。
短歌=ウタが自己の現実の様態とかけはなれていく事態、
そのありよう(装置)が徐々にいやになりました。
「火でもみてなよ」は物を殺害する結果の表象です。
反省をする、殺す、ウタにする。
そんな仕掛けは嘘くさく、長くは使えなかった。
マシナリーなら、はたまたサイボーグなら、
属性や様態はもっと夾雑でしょうよ、と。
いつのまにか「サラダ記念日」は雲散霧消して、
僕の皮膚は新しい様態を生きていた。
おなじ空気=様態を生きるトポスを「時代」と呼んでもいい。
そう、僕にも「サラダ記念日」を、林あまりを、
おなじように感受した時代があったのだ。

たまたま東京・町田に行ったおり、
駅に向かう途中の本屋に
それは幾重にも平積みされていた。
若き高校教師=俵万智の「サラダ記念日」を
そのような出会いのなかで購った。
擦過して、あれから何年が過ぎたのだろうね。

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このページは、が2012年4月16日 05:06に書いたブログ記事です。

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