「自己の構成」
「自己の構成」とはなんだろう?
世が世なら学生さんの就活に必須の知恵、
ということにもなるだろうか。
僕にはもちろんそんなつもりはない。
近年これを気にしながら生活している・・
そんなところだ。
人が力を感じて生きる方法、と思っています。
ことほどさように実践できるかは別問題ですが。
1.実際の場面での離接は明らかじゃない。
2.仮に明らかでも自分の力能が不足。
というようなことかなあ、できないとすれば。
僕たちは身体のことも精神のこともよく知らない。
それは肝に銘じておくべきです。
にもかかわらず「自己の構成」です。
まるで自分で自分をどうにかできるみたいな
いいかたですね。それは無理です。
だからといって無力だと思わないでください。
波打つパラドックスを統御せんと欲して
神に祈っても何も解決はしないでしょう。
ニーチェは言っています。
「汝自身を助けよ、そうすれば誰でもが汝を助ける。
隣人愛の原理。」
これって健全ですなあ。(笑)
でもホントのところそうなんです。
「隣人愛」とはいま流行の「絆」ではない。
ニーチェはスピノザに負うところがある。
これは「内在」を説くアガンベンの「系譜」でも
明らかにされていますね。
そのニーチェの「善」に似たところもありますが、
僕は「善」を「自己の構成」と結んで考えます。
「善」=「自己の高揚」とでもしておきます。
(そこが似てるところなのです)
自分が高揚しないことならば
つとめて思いとどまりましょう。
そこから「自己の構成」の確かな足取りが開始します。
感じる人はおわかりですね。
「認識」はそれほど確かではない。
つまり人間はそれほどデキてはいないのです。
でも身に沸き立つ高揚感は少しは確かでしょう。
オレの力が弱まるなあ、と予感すれば
そこには手をそめずにおきましょう。
力をあなたの中で高めるもの、
それを引き寄せてみましょう。
世が世なら学生さんの就活に必須の知恵、
ということにもなるだろうか。
僕にはもちろんそんなつもりはない。
近年これを気にしながら生活している・・
そんなところだ。
人が力を感じて生きる方法、と思っています。
ことほどさように実践できるかは別問題ですが。
1.実際の場面での離接は明らかじゃない。
2.仮に明らかでも自分の力能が不足。
というようなことかなあ、できないとすれば。
僕たちは身体のことも精神のこともよく知らない。
それは肝に銘じておくべきです。
にもかかわらず「自己の構成」です。
まるで自分で自分をどうにかできるみたいな
いいかたですね。それは無理です。
だからといって無力だと思わないでください。
波打つパラドックスを統御せんと欲して
神に祈っても何も解決はしないでしょう。
ニーチェは言っています。
「汝自身を助けよ、そうすれば誰でもが汝を助ける。
隣人愛の原理。」
これって健全ですなあ。(笑)
でもホントのところそうなんです。
「隣人愛」とはいま流行の「絆」ではない。
ニーチェはスピノザに負うところがある。
これは「内在」を説くアガンベンの「系譜」でも
明らかにされていますね。
そのニーチェの「善」に似たところもありますが、
僕は「善」を「自己の構成」と結んで考えます。
「善」=「自己の高揚」とでもしておきます。
(そこが似てるところなのです)
自分が高揚しないことならば
つとめて思いとどまりましょう。
そこから「自己の構成」の確かな足取りが開始します。
感じる人はおわかりですね。
「認識」はそれほど確かではない。
つまり人間はそれほどデキてはいないのです。
でも身に沸き立つ高揚感は少しは確かでしょう。
オレの力が弱まるなあ、と予感すれば
そこには手をそめずにおきましょう。
力をあなたの中で高めるもの、
それを引き寄せてみましょう。