出来事

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以下はドゥルーズの『意味の論理学』第21セリーの部分。
(小泉訳)
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すなわち、コメディアンは、絶えず先立つものと
絶えず立ち遅れるもの、絶えず希望するものと
絶えず回想するものを演ずるために、瞬間に留まるのである。
コメディアンが演ずるのは、決して人物ではなく、
出来事の要素が構成するテーマ (複雑なテーマあるいは意味)、
つまり、個体と人格の限界から実効的に解放されて
交流し合う特異性が構成するテーマである。
役者は、非人称的で前個体的な役割に自らを開くために、
常にまだ分割可能な瞬間へ、その人格性のすべてを
差し出してしまう。だから、常に役者は、
別の役を演ずる役を演ずる状態にあるわけである。
役と役者の関係は、未来と過去と、それらに対応する
アイオーンの線上の瞬間的な現在との関係と同じである。
したがって、役者は出来事を実現するのだが、
出来事が事物の深層で実現されるのとはまったく別の方式
によってである。あるいはむしろ、役者は、
この宇宙的で物理的な実現に対して、
別の特異な仕方で表面的な実現によって、
その分だけ明確で鋭利で純粋な実現によって、
裏地を張るのである。役者の実現は、
宇宙的で物理的な実現に境界を定めて、
そこから抽象的な線を引き出し、
出来事の輪郭と光輝だけを保存する。
自己自身の出来事のコメディアンになること、反-実現。
 というのは、物理的混合が正しいのは、
全体の水準、神の現在の円全体においてのことに
すぎないからである。しかし、各部分には、
多くの不正と恥辱があり、多くのカニバリズム的な
寄食の過程がある。そのために、
われわれに到来することに直面しての恐怖、
到来することに対するルサンチマンが呼び起こされる。
ユーモアは、選別の力と切り離せない。
到来すること(事故)の中で、
ユーモアは純粋な出来事を選別する。
食べることの中で、ユーモアは、話すことを選別する。
ブスケはユーモア-役者の特性を定めていた。
然るべき時にいつでも形跡を消去すること。
「人間と作品の中から、辛苦以前のその存在を立ち上げること」。
「ペスト、専制政治、最も酷い戦争は、
無のために支配していたのだという喜劇的な運を認めること」。
要するに、各事物について「無垢な持ち分」を解き放つこと、
言葉と意志すること、運命愛(Amor fati)
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第21セリー「出来事」である。ジョー・ブスケのこと、
そして唐突に(?)役者のはたらきが登場する。
第21セリーをどう受け止めるかは自由だ。
僕はほとんどレトリックとして読んでいる。
だから意味の厳しい詮索・対立は避けている。
ならばアンタには思想がない、と言われそうだが
そうですね、はい、というしかない。
エクリチュールとはいってもそこで「慰安」だけを
汲み取っているつもりではないのだが・・。
「運命愛」ってたやすいことではない。

元ヤンキースの伊良部が自死した。
たまたまTVをつけると伊良部の顔が電光掲示板にあった。
ナインが黙祷する。ジラルディ監督とジーターの姿が
クローズアップされた。
なんで?とでも言いたげにジーターが首を少しかしげた。
伊良部さんアンタね死んだりすると、みんなして試合前に
黙祷することになりますよ、てなぐあいに
前もって彼に耳打ちすることができたとすれば、
出来事はどのような特異点を導き出しただろう?
伊良部は自死を思いとどまっただろうか?

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このページは、が2011年8月 1日 20:48に書いたブログ記事です。

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