二重のセリー

|
{パラドキシカルなまんま、帰ることにした。おしまい。}

で、「久住山」の記事を終えました。(笑)
では、も少し内実を話しましょう。
くじゅうテントサイト探し=逡巡、たいがいそんな時は
(そんな時にに限って)いろいろセリーが立つのです。
「パラドキシカル」というのはそんな意味です。
「存在論的な問い」はそこにはありません。
むしろオートポイエシス(autopoiesis )に親和性があります。
こんな僕にオーケーを出してくれたのがドゥルーズです。
ヤハウェみたいなお方ですなあ。(笑)

登山の満足感に浸る実在としての僕。
くじゅうエリアでの過去のテン泊を想起する潜在としての僕。
それらは対立的ではなく一義的な、そう即自的なセリーとして
出現します。それ自体は「出来事」といえます。
泉水キャンプ場は子供たちでいっぱいでした。
それをみて何かを思うのはベルクソン的な「純粋記憶」か、
いや、それこそ「精神分析」的なアプローチができることがら
なのかもしれない。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」を
適用してもいいかな。ま、どうとも解釈できます。
かかるドゥルーズ的な捕捉の「詐術性」を樫村晴香が
批判したのだと思っています。
樫村指摘のウィークポイントは当然僕にも波及しているわけでして、
一連の認識の手続きに見て取れるレトリックや幻想性を、
すなわち詐術性は僕としてそれなりに承知しているつもりですが。

今ここ、の行為の先端は、どのように僕に到来したのか。
出来事はかくかくしかじかの後、どのように僕に受肉するのか。
それを想うことはすなわち哲学することでもあります。
よって些末にみえるでしょうがこだわることは無益ではありません。
再び同じパターンで山行きをする・・
ハビトゥスとしての反復をやってみると、
意外な線が出てくるかもしれませんね?

先日、
暗室に入ると壁に貼り付けていたマスコのデータが散っていた。
強い風の仕業だろう。
西日を受けて、紙はさわるとばらけるくらい劣化している。

このブログ記事について

このページは、が2011年7月29日 18:02に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「久住山」です。

次のブログ記事は「出来事」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.01

photo pages

photos

地上の夜の天使たち