フーコーと禅

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フーコーの袈裟姿。
画像をここにコピペしたかったのだが
当のホンが見つからない。
『現代思想の冒険者たち』の付録だったと思う。
フーコーが禅に興味を示すのは何となくわかる。
(座ることの身体性に、という意味で)
検索かければいろいろ出るでしょう。

忙しいフーコーに只管打坐はつらかろう。
「妄想するなかれ」(莫妄想)はほとんど不可能。
不立文字ならばエクリチュールはどうなる。

そんなこんなでフーコーに道元さんは無理だろう。
(誰にだってそうそうは)
道元の「眼横鼻直」はユークリッド、ニュートン式で
一挙にあたえられる「自然」の謂いだとしよう。
「心身脱落」も同じものとみてよいか。
ならば、そのような禅者の内在平面に
さまざまな潜勢力が横溢することは可能か?
浅田彰的に言えば、フラクタルは跋扈できるか?
うむ。ちょっと、ねえ。
道元さんはグレーゾーンを排除したのではないか。

少し寄り道を。
坐禅時の呼吸数。経験者はわかると思うが、
極端に少なくなる。1分間の呼吸数は2-3回。
それと、いわゆる脳天から熱く抜ける感覚、
(チャクラが開く、といえば大げさだけど)
その状態とドゥルーズの「器官なき身体」に
どこか近似性のようなものがあるだろうか。

ご承知のとおり、ドゥルーズには「観想」がある。
古くはアリストテレスにもそれはある。
田中美知太郎=岩波哲学講座で
高校生の僕はアリストテレスの「観想」を
何かしら静かな悟りのようなもの、と理解していた。
つまり禅のようなものか、と。
それに比べるとドゥルーズの場合は事物に触れた後の
内面性を言っているように思う。
「超越論的経験」と関連があるようにみえる。
(僕のいつものあいまいな直感=レトリックなのだが)
どちらにせよ、まあ「心身脱落」とは異なるでしょうな。

落ちにもならぬが、中村勘太郎の「禅 Zen」を
スカパーでみて、フーコーの袈裟姿を思い出したのだ。

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このページは、が2011年2月 8日 18:27に書いたブログ記事です。

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