コナトゥス conatus

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「超越」とか「内在」を考えると、必ずといっていいくらい、
ここ、アガンペンの『絶対的内在』に戻る。
論攷を何度も読み返すことになる。
(「現代思想」2002.8.)

conatus sese conservandi を
google 翻訳、ラテン語指定で音声と翻訳をみる。
「コナントス セセ コセンヴァンディ」と聞こゆ。
「保存の自身がしようとした」と訳が出る。
微笑ましい。愉しいねえ。
多賀健太郎は「自己保存的コナトゥス」と訳している。
Wikipedia で確認すると
用語の系譜が知れる。(英文)
冒頭はこうである。
will to live だという。
まさにスピノザそのものだ。

「内在平面」はとりあえずは自身を守り、
生き延びる欲望にひしめいている。
誰もが通過できる安穏なプラトーではなく
どんでんがえしのパラドックスに満ちている、とみる。

conatus sese conservandi は自己の存在に徹する場であり、
したがってそこには「他者性」はない。
言い換えれば「欲望には他者性はない」、とも言える。
象徴は出現せず、たとえ出現しても
意識しないだろう。
そう考えれば、欲望はたしかに反動的ですらある。
はじめから父と子を携えて
精神分析の長椅子に向かうのとは違うのだ。

「欲望というかたちをとった絶対的内在」とアガンベンは言う。
そこでは、「欲望と存在はあますところなく一致する」。

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このページは、が2011年2月17日 13:49に書いたブログ記事です。

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