フーコーの倫理

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定年で「毎日が日曜日」族となる。
ガタリのいう「一種のマシニックな倒錯、狂気」の日本的集団に
深く属していた過去を改めて想起する機会がある。
それにしても僕にとっては60歳定年は遅すぎた。
50歳は贅沢だとしても、せめて55歳定年だったら、と思う。

集団内では当然のことながらその社会で通用する言説に
依拠しなければならない。言表行為は社会的であることを
所詮免れ得ない。僕も「そこでの言説」をなし続けてきた。
日本人はガタリが指摘するまでもなく、特別な民族で、
所属する地勢の言語でしか語れない、というふうだ。

さて、現在。
マシニックな集団を離れ、僕は自由気ままに語れる。
とてもよろしい。
検索で、あなたがこの項目を参照した場合、
あなたは当然ドゥルーズを知っている。
あなたにとって僕個人は見知らぬ他人。
(あたりまえですね)
言表行為にはさまざまな要素が織り込まれる。
そこには社会経済的要素もたたみ込まれる。
あなたが僕を見知らないことが
僕の自由な言表形成を促す。
不知があなたの自由なアレンジメントを保証する。
なぜかそう思えてならないのです。
ありがたいことです。そのうえで
檜垣立哉の「ドゥルーズの転回→倫理」に関連して、
(関連しないかな)
少し自分に引きつけて記します。

ミシェル・フーコーは
『アンチ・オィディプス』の英語版の序文で、同書を
「(著者たちに許しを乞いつつ)倫理の書と呼びたい」と
言っています。
(「現代思想」1984 総特集ドゥルーズ=ガタリ)
そして具体的にいくつかの「倫理」を示している。
(ドゥルーズを倫理的に生きよ、と提言してるようなもの)
そのうちのひとつを。

" 哲学でこれまで定義されてきた個人の「権利」なるものの回復を、
政治運動に要求するな。個人は権力の所産にすぎない。
必要なのは、多様化とずらしによって、多岐にわたる接合を、
「脱個人化」することだ。集団は、階層化された個人個人を
結びつける有機的紐帯であってはならず、脱個人化の
恒常的算出体であらねばならない。"

フーコーらしい倫理ですなあ。
今となっては古くさい?今でも通用する?うーむ。
「脱個人化」をどう読みますか?
私を脱構築する、ということですかね?
この倫理基準(このコンテクスト)に照射されたら、
僕はどのように炙り出されるだろうか?

現時点から当時を振り返ってみる。
すると、
「脱個人化」を果たしていた・・、しかも「権力の所産として」。
という滑稽な線が出そうな気がするのです。(笑)
いや、単にレトリックかもしれないけれど。
せいぜい階層化された個人の有機的紐帯、
というしかない集団であった。
どのように有機的か、という問をたてることもできるでしょうね。
たいして意味はないかもしれない。
ともかく。自覚的に「逃走線」を引き出してはいた。
それでお茶を濁していたのかな・・不遜です。
そういうトポスをとりあえずは保持する、
それが僕の態度であった。
これもまた「倫理」なのです。

「ドゥルーズを生きる」という倫理は
フーコーに学んだわけではない。
これはシネマに関する「ドゥルーズの配分」を
やんわり拒む自分と同様、固有のものです。
どれほど強調してもいいけど、
僕たちは固有の概念を創り、生きる。
「脱構築」は現働の生活で日々実行していたのであって、
デリダから引き継いだわけではない。
僕の経験からいえば、知見としての概念は
アカデミックに到来する。そこで驚きもし、感動もする。
しかしそれはすでに僕の中にあったものです。
交通整理をしてくれる思想家には大いに敬意を表する。
「ドゥルーズを生きる」は大げさと思われるでしょう?
ドゥルーズの指し示すところを、ということなのです。
というか、そのように生きることしかできない。(笑)
かく生きるしかない、ってのが「倫理」でありんすよ。
よって「倫理」は差異に満ちています。

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このページは、が2011年1月10日 16:19に書いたブログ記事です。

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