やれやれ
長文注意。いや警戒。
やれやれ、といえば村上春樹である。
30歳台の半ば、友人にこの「やれやれ。」は僕たちの
年代の男にはよくわかる気分だよね、と話したことがあった。
友人は笑っていた。
折もおり、久留米のとあるキッチンレストランでみた雑誌。
B*P Vol 8. 2009 年夏に出てる。
『レッツ、村上春樹。(やれやれ)』
微笑ましい。
村上春樹と僕は1949年生まれの同時代。
1年浪人し7年かけて卒業した男。
僕は4年遅れて最速4年で卒業した男。
完璧に同時期に在籍してる。
彼はほとんど授業に出なかったらしい。
一方僕は背水の陣(笑)で授業に出た。
(特待だったので、成績を出す必要があった)
(結婚していたので卒業後は職業ステータスを出す責務も)
(=まるでパチンコ玉だね。やれやれ。)
(結果は野村も山一も三洋も落ちた。26歳既婚がネック)
(いいわけじゃなく、役員面接でいわれた)
(方向転換して公務員へ、というのが結果)
村上春樹はジャズ喫茶店に通い、坪内演劇博物館では
ひたすらシナリオを読んでたらしい。
品格が違いますな。同じ学生結婚でも・・・
僕は昼夜開講制の土曜日2時10分からの「精神衛生学」を
文学部の教室で受けていた。(よく憶えてるなあ)
(このころから「精神分析」的アプローチが好みだったのか)
文学部のキャンパスですれ違ったことがあったかも。
それは、ナイ。(笑)
・・・・・
僕の流儀でいえば
「やれやれ」には句読点が付加される。
でしょう?
まあいい。ところで先の雑誌に、
あの内田樹センセのコーナーがあった。
その中だったと思う(違ってたらごめんなさい)村上春樹への
アンケートのエピソードがあった。
「無人島にもって行くCD1枚」。・・よくある企画。
で村上は
「60年-64年のカタログ」と答えたそうだ。
・・・わかるなあ。「たぶん」(村上流)じゃなくて
「絶対」わかる。
60年代というのもそうだろうけど、
カタログでタイトル(あるいはジャケット)をながめて
アタマのなかで全曲を通せる、てのがね。
・・・・・
僕は耳を悪くして補聴器を使うハメになった。
(注:ジャズをヘッドホンで、というのは難聴の原因とされる)
爾来音楽から遠ざかった。
しかしたまに聴く音楽は
「自分の中に構成されている記憶」で完璧に聴ける。
これは「体験」です。「経験的事実」です。うん。
・・・・・
『新世界』は17歳のときにトスカニーニで聴いた。
アームの先のカートリッジは何と「グレース」でした。
シアワセな男です。ま、僕の装置じゃないわけですが。
何度何度も・・毎日聴いた。
これが現在も流れている=不滅なのです。
youtubeでねそのトスカニーニを聴いたとき、
全音符が記憶の中の音符と一致する。
そう、自分の中で17歳の音が鳴り響いている。
ハッタリ、とお思いでしょ? 本当なんです。
17歳が響くのです。うーん。
・・・・・
補聴器をスターキーP675にかえて、音楽は随分豊かになった。
装置からの細やかな音が聴き分けられる。
しかしこれも実は「記憶」が「累乗の関係」かなあ、
再現前する・・・ということなんだと思う。
(反復=力、ピュイサンスですな)
クリフォード・ブラウンをバド・パウエルを
そしてレイ・ブライアントを記憶で鳴らすことが僕にもできる。